本日8月22日は、名古屋の愛されドラ娘、山本るりかの生誕祭ですね!
おめでとうございます!
まだ前回の生誕祭記事から1ヶ月くらいしか経っていないのに、センチ20周年プロジェクトも動き出して騒いでいたこともあり、なんだかずいぶん長い間を経ているような感じがします。
例に違わず今日の筆者はるりかのキャラソンをエンドレスリピートしているのですが、「水色の宝石」の最後で発せられる「そばにいてね!」というセリフをきくとすごくむず痒くて、イヤホンをしているにもかかわらず、音漏れしてないか気になって周りを見渡してしまいましたとさ。
20年前、筆者の印象
筆者の山本るりか(以下るりか)の第一印象は「薄い」でした。
髪型を含むシルエットや性格、エピソードに至るまで、20年前は筆者にとって全てが普通だったのです。
唯一印象に残ったのはその声で、シルエットに似合わない、今野宏美さんの少し甲高い声は非常にギャップを醸し出していました。
その点ではキャラクターの「色」になっていたと思います。
とはいえ、ラジオで爆発していたような天然さを出していたわけではなく、かなり丁寧に演技をされていたようにも思います。
他のキャラクターもそうなのですが、キーワードに関してはセンチメンタルグラフティシリーズを通して一貫して書ききった印象があります。
その一つが山本るりかの「嘘」というキーワードでした。
今回は山本るりかの誕生日に便乗してキーワードのひとつである「嘘」にフォーカスした話を書き綴りたいと思います。
未完成の嘘
るりかの嫌いなものは「嘘をつくこと」。
センチメンタルジャーニーの第7話にて「嘘をつかない子になりたいと思い続けて生きてきた」というるりかのセリフもあります。
この背景には、主人公とるりかの思い出である「アンモナイトを割った」ところにあります。
ここには「主人公がついた優しい嘘」と「るりかが背負おった嘘」が入り交じっており、それがるりかにとっての行動指針となっていることは周知の事実です。
主人公がついた、るりかを傷つけないための「嘘」。
主人公なりの「去る自分はいずれ嘘と一緒に忘れ去られる」という思いもあるだろう。
ただ、主人公がるりかの性格を把握しきれていなかったのか、るりかの中でそれはしこりのようなものになってしまった。
その未完成の嘘は結果としてるりかの時を止めることになってしまった。
どうして人って本当だけで生きていけないんだろう
センチメンタルジャーニーのラスト付近に、るりかの、上記のようなセリフがあります。
本当だけで生きるのは、もしかしたら楽しいのかもしれない。
しかしながら人生における駆け引きのなかで「優しい嘘」は必要だ。
優しい嘘に関しては、ぜひ「コードギアス 反逆のルルーシュ」を1期2期ともを涙して見て体感してほしい。
2019年02月には満を持して「復活のルルーシュ」も上映されるので、ちょうどいいタイミングだろう。
また嘘でなければ一部成立しないものもある。
それは次項でお話したい。
未体験を体験させる嘘
前項で「嘘でなければ一部成立しないもの」があると言った。
それはいくつかあるが「センチメンタルグラフティ」のシリーズにおいていうと、2でるりかが没頭している「演劇」がそれだ。
物語にはフィクションとノンフィクションがあるが、フィクションであればその内容は、体験があるにせよ「嘘」の物語だ。
いくら現実的な設定であったとしても誰も体験をしていないものを見せるのである。
ノンフィクションであったとしてもいくつかの解釈を織り込んで表現をする。
それは1の主人公がるりかをかばってついた嘘のように、現実に嘘を練り込んで関係性を柔らかくしたのにも似ている。
これらは悪意のある「嘘」ではない。
一部そうではない団体もあるが、大抵はそれを「未体験を体験させる」ように作られている。
我々はそれを疑似体験することによって、作品を飲み込み、評価する。
つまり演劇は「嘘がなければ成り立たないこと」であり、嘘のないものを見せられても面白みはまったくない。
役者にとっても同様で、自分の中に今までなかったものを自分に取り込むところに、苦労をすることもあるだろう。
声優を志す人にはありがちな「演劇部経験者」というのも相まって、役作り自体は容易だったかもしれない。
しかしながら、本来の自分でないものを表現することは苦しみを伴い、そこから生まれる表現は、格別だと筆者は思う。
時間を2度止められたるりかは「演劇」によって時を動かし始め、成長していく。
センチメンタルグラフティ2のるりかエピソードもまた「嘘」にまつわるものだと、筆者は確信する。
余談だがセンチメンタルグラフティ2の発売した2000年(と言っても筆者の場合1月だったが)、筆者は演劇部に入った。
そして大学の進学時も専攻は「演劇・芸能」の専攻とした。
るりかのエピソードに演劇が入っていることを知らずして、舞台の道を辿ったので、後から考えると、これは運命だったのかもしれないと思う。
嘘を現実にすること
るりかには夢があった。
「女性初のプロ野球選手になる」という夢だ。
この「夢」というのも一種の「嘘」のようなものだと筆者は考える。
夢という嘘を言い続けることで、叶う可能性を上げるのは常套手段ではないかと思う。
筆者が思うに、るりかは最初から嘘をついていたのだ。
あとは行動でその嘘を嘘でなくすようにするだけだ。
2018年現在、NPB(日本野球機構)において女性プロ野球選手はまだいない。
しかしながら、2009年にJWBL(日本女子プロ野球リーグ )も設立され、女性プロ野球選手は多数排出されており、独立リーグでも女性の選手はいる。
るりかに可能性はあったのだ。また、筆者のスタンスとして「形から入る」というものがある。
これも一種の「嘘を現実にする」ための手段と言える。
フィクションは嘘なのか
さて、ここまでいろいろと書いてきたが、皆さんは違和感を感じないだろうか。
「センチメンタルグラフティ」シリーズはフィクションであることに。
「嘘」をキーワードのひとつに置きながら、山本るりかとのエピソードは誰も体験したこともなく、ただ主人公に自分を投影しているだけである。
この矛盾を孕んだ作品は、我々に何を問いかけているのかを20年近く考えており、まだ筆者の中では答えは出ていない。
深読みしているのかもしれない、または見当違いなことを考えているのかもしれないが、それほど筆者の中では大きく印象に残るテーマなのである。
今日、名古屋を巡礼しているかたもいるようですし、皆に愛される山本るりかのことを思いながら、この記事の結びといたします。
深い思慮を与えてくれたセンチメンタルグラフティに感謝を。
そんなエピソードを体現してくれた山本るりかという人格に感謝を。
名古屋の聖地巡礼もしています。
また、名古屋で現存するセンチ応援店にも行ってきましたので、合わせてどうぞ。
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Webディレクター/Webディベロッパーで、舞台芸術を中心としたイベントフォログラファーとしても活動している。
ひつじとセンチメンタルグラフティが好き。